『月』(辺見庸)を読んであまりに難解だったため映画を観に行く

相模原障害者施設殺傷事件から着想を得た辺見庸さんの長編小説『月』を読みました。

重度障害者施設の入所者きーちゃんの視点で物語は進んでいくのですが、本文のほとんどがきーちゃんの心象世界を表現したような文章で非常に難解でした。

グロテスクで不可解な内容も多く、読むのに非常にエネルギーを要しましたが、事件の犯人が自身の主張を展開する後半部分は考えさせられる点がたくさんあり最後まで読んで良かったです。

『月』は宮沢りえさん主演で映画化され、現在公開中です。

当初は内容的に落ち込んでしまいそうで観に行く予定はなかったのですが、原作が私にとってあまりに難解だったのでどのように映像化されているのか興味が出て観に行きました。

今回は映画『月』のあらすじ、感想を紹介していきます。

目次

映画『月』作品情報

監督・脚本石井裕也
原作辺見庸
公開2023年
製作国日本
上映時間144分
年齢制限PG‐12

映画『月』あらすじ

堂島洋子(宮沢りえ)はかつて賞を受賞するような有名作家だったが、書けなくなり森の奥にある重度障害者施設で働き始める。

彼女のことを「師匠」と呼ぶ夫の昌平(オダギリジョー)と2人でつましく暮らしていた。

施設では利用者に対して心ない扱いをする職員もいて洋子は胸を痛めていたが、その様子を訴えても決められた規則の通りにやっているからと取り合ってもらえない。

一方で同じく施設職員のさとくんも施設の在り方に以前から憤りを感じていて、その思いは日に日に強くなっていた。

やがて彼の中の正義感は怒りに形を変え、強い正義感とともにある決断をする。

原作は障害者のきーちゃんの視点で話が進んでいきますが、映画はオリジナルキャラクターの洋子が主人公となっています。

映画『月』登場人物

  • 堂島洋子(宮沢りえ) 書けなくなった元・有名作家。重度障害者施設で新しく働き始めた。子どもを小さいうちに病気で亡くしている。
  • 堂島昌平(オダギリジョー) 洋子の夫。自宅で映像作品を作っているがお金にはなっていない。しばらく働いていなかったがマンション管理人の仕事を始める。
  • 坪内陽子(二階堂ふみ) 施設職員。小説家を目指してコンクールに応募している。
  • さとくん(磯村勇斗) 施設職員。入所者を乱暴に扱う職員がいるなかで手作りの紙芝居を作って読み聞かせるなど温厚な人物。

映画にもきーちゃんは登場しますが、目が見えないからと窓を塞がれた明かりの入らない暗い部屋で寝かされていたのがショックでした。

原作で「ドッテテ ドッテテ ドッテテド」と延々と繰り返す入所者の描写が印象的だったのですが、映画でも登場していましたね。

映画『月』を鑑賞した感想(ネタバレあり)

ここからは映画『月』を観た感想や印象に残った場面を紹介していきます。

映画の内容にわりと触れていますので、ネタバレが嫌な方はご注意ください。

食事会で立ち現れる陽子の屈折した感情

洋子がさとくんと陽子を自宅に招いて昌平も含めて4人で食事する場面があるのですが、はじめは和やかに話しているのが徐々に気まずい空気に変わっていく様子に役者さんたちの演技力を感じました。

特に二階堂ふみさんの演技が印象に残ったので、ここで陽子というキャラクターについて少し語りたいと思います。

二階堂さん演じる陽子は「小説のネタのために施設で働いている」ということを言っていますが、仕事は真面目に取り組む職員です。

文才がある洋子に対しては尊敬の態度のなかに嫉妬があるのかなと感じました。

陽子は両親と暮らしていますが夫の不倫に気付いていて責めない母や障害者施設で働く娘の話をきちんと聞こうとしてくれない父に対して鬱屈とした感情を抱いています。(父からは躾と称して小さいころから虐待されてきたという発言もあるので複雑な家庭環境だったようです)

また、「施設の中は嘘ばかり」「都合の悪いことはなかったことにされる」と真実から目を逸らすことに過剰に批判的な部分があります。

食事会ではおとなしくお酒を飲んでいた陽子でしたが、数日前に洋子から小説に対する姿勢を否定されたことが引っ掛かっていたようで洋子に突っかかり始めます。

洋子が賞を取った小説は東北の震災を描いたものだったようですが、きれいごとしか書かれていなかったというのです。

現地はもっと悲惨だったのにそれが描かれていない、結局見たいものしか見ていないのではないかと洋子を糾弾します。

単純に洋子の才能への嫉妬もあるのかもしれませんが、施設で障害者の人が大切に扱われていない様子を長く見てきていたり、問題が存在しているのにそれがないかのように振る舞う両親の間で生活しているうちに、嘘やきれいごとが許せなくなってしまったのではないかと思いました。

一見するとめんどくさい女だな(二階堂ふみはその辺りのめんどくささの表現が上手い!)という感じですが、相手(この場合は洋子)を傷付けているとわかっても「嘘は嫌だ」という陽子の気持ちも私はわかる気がしました。

でも、嘘もきれいごとも人間同士が共生していくためには必要なときもあると私は思っていて、あらゆることに真実を求めていたら陽子のように苦しいだろうなと感じます。

さとくんの心の変化

磯村勇斗さん演じるさとくんは一見穏やかですが、要所要所で「この人何を考えているのだろう」という不気味さが垣間見えます。(みんなで食事をしているときに死刑執行の話を興味深げに話したりするところなど)

洋子と同じように施設入所者に対する人間の尊厳を感じられない扱いに憤りを覚えてきたさとくんですが、その思いはやがて歪んでいき「心がない障害者はいらない」という考え方になっていきます。

映画では入所者に対して悪意のあるいたずらをする職員の姿が描かれていましたが、さとくんは恐らくそんなことは一度もせずまっすぐに仕事と向き合ってきたのだろうなと思いました。

真剣に向き合ってきたからこそ、この人たちは生きていて幸せなのか、生きている意味があるのかと突き詰めてしまったのではないかと思いました。

さとくんの様子に嫌な予感を覚えた洋子が「今、何を考えている?」と聞くと、さとくんは入所者の殺人計画を告白します。

重度障害者は心がないので殺すのが正しいと主張するさとくんを真っ向から否定する洋子に対して、さとくんは考えを変える様子は全くありません。

自分がきーちゃんだったら?

施設の入所者きーちゃんは目が見えず、動くことも話すこともできません。

洋子がさとくんと対峙していると目の前にもう一人の洋子が現れ話しかけてきます。

「お腹の子がきーちゃんみたいな子だったらどうする?」

このとき洋子のお腹には新しい命が宿っていましたが子どもを病気で亡くしたことで、また同じような子が生まれてくるのではないかと恐れていました。

「家族にきーちゃんがいたら?」

「自分がきーちゃんだったらうれしい?」

「きーちゃんになりたいと思う?」

この場面は自分が洋子になったようで、もう一人の洋子の問いかけに一つ一つ考えさせられました。

さとくんは障害者と関わったこともない人が言うことはきれいごとだと批判しますが、人を殺すことは絶対にいけないことだと思うけれど、ふだん障害者に接する機会がなく障害のある人のことを考えて過ごすことも少ない自分に何が返せるだろうと思ってしまう部分もありました。

他人が勝手に奪っていい命はない。

心がない人なんていない。少なくとも他人が勝手に心の有無を決めてはいけない。

そう思う一方で、さとくんやもう一人の洋子の問いかけに対して自分はきれいごとを言いたいだけではないかという気まずい思いもあります。

まとめ

始終陰鬱で緊張感のあるこの『月』という作品ですが、洋子と昌平の夫婦の物語として心温まる場面もあります。

オダギリジョーさんの頼れる感じはないけれど妻のことをとても大切に想っている夫の役柄がとても良かったです。

大切な子どもを病気で失ったあと新たな命を授かった2人がどのような決断をするのかも気になるところです。

観た後に重たいものが残る作品であるとは思いますが、映画のなかの出来事ではなく自分が生きている社会のこととして改めて考えるきっかけを与えてくれる作品ですのでぜひ観てみてください。

原作は難解ですが、私は作者の辺見庸さんのほかの作品も読んだみたいと思うきっかけになったので気になる方は映画とあわせて読んでみてはいかがでしょうか?

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この記事を書いた人

駆け出しのブロガー。30代女性。気分変調症で療養中。社会復帰の一歩としてブログを始める。前職は医療事務。読書と映画鑑賞が趣味でオススメの作品を紹介。

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